「時計仕掛けのオレンジ」は、暴力を暴力で包み続ける

 

はじめて観た。

スタンリー・キューブリックのSFには「2001年宇宙の旅」の印象があったから、

これほどドライブ感に溢れた映画だと知らなかった。

 

前半で描かれるのは、主人公アレックスの、圧倒的な暴力。

劇場で20年以上上映禁止になったのもうなずける、

特定の人たちに高揚感を与えるであろうおそろしいものだ。

特に、「雨に歌えば」を歌いながらリンチとレイプを行うシーン。

ギャップのある音楽と画を組み合わせる、映像の技法「対位法」が使われている。

その暴力は、その陽気な楽曲のように屈折がない、素直なもの。

けれど、徹頭徹尾、胸糞が悪いもの。

ここまで留保なく暴力を描く映画は、おそらく今の時代ますます見つけにくくなっているだろう。

 

近未来を描いたアートディレクションや、

力強さのあるカメラワークは、スタイリッシュ。

だから、ますます危険なのだ。

アレックスの暴力さえスタイリッシュに見えてしまう、危険さがあるのだ。

 

しかし、その単調な暴力がメタ的に別の暴力に包み込まれるのが、後半からだ。

全体主義を意識している国家の暴力。

人間性を洗脳によって制御できると信じる科学の暴力。

アレックスの暴力への、かつての仲間やホームレス、作家たちの仕返しの暴力。

そういった暴力の多重構造が生まれ、ますます物語はドライブ感を増していく。

 

暴力を包む暴力、というメタ構造こそ、この映画のポイントなのだと感じた。

その暴力のメタ的な構造こそ、原初的な暴力からスタートして

文明が「発展」していくことでつくられていく構造であるようにも思える。

 

そして、その国家の暴力によって、

結局彼の暴力性の有無は二次的な問題になってしまうラストは印象的だ。

けれど、確実に、アレックスが受けた暴力は彼を破綻させた。それが表情からわかる。

 

いったい、どの暴力が「まし」なのか。

行使している対象が罰せられない暴力、罰せられる暴力の違いはどこにあるのか。

答えも、提案もないのが、いっそ清々しい。


そして、果たして、機械的に暴力衝動が制御できるようになった人間は善人なのか。

この魅力的なテーマは伊藤計劃の「ハーモニー」を彷彿とさせる。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

-----
有名な話のようだが、

「時計仕掛けのオレンジ」の原作には、映画の先に触れた21章が存在する。

映画は20章までを扱っているが、21章では主人公アレックスが更生するという。

21章を用意した、原作者の気持ちも個人的にはよくわかる。

普段は、その世界観で生きているから。

けれど、同時に20章までの要素で芸術的に映画を完成させた監督の気持ちもよくわかる。

 

人は「時計仕掛けのオレンジ」が20章で終わる価値観か、21章まである価値観か、

どちらかを選ぶことができる

劇中の神父がいうように、

選ぶ自由があることが、人間の条件なのだろう。