これからブログを更新するにあたって。

これから、あらためてブログを更新していこうと思う。

ブログをする理由は、いろいろあるが、

二つほど理由に触れたいと思う。


アウトプットを前提としたインプットは、吸収力が高い

ここでいうインプットとは、大雑把にいえば、本を読む、映画を観る、イベントへ行くといった、情報やコンテンツを摂取すること。

 

以前は、かなりの頻度でブログを書いていた。

残滓のようなものがここにも少し残っているが、それはごく一部。

もっとたくさん書いていたし、一時期は、相当のめり込んで、

1日のかなりの部分をブログに費やしていた時期さえあった。

それが、社会人になり、忙しさもあったと思うが、どちらかというと

怠惰な気持ちからブログから離れてしまった。

終盤の頃は、人に見せる気持ちもかなり薄まっていたことも背景としてある。

 

ブログを書いていた頃の自分を思い出すと、本や映画、イベントなどに対しての

インプットが相当前のめりだった。

「これをブログに書くのならどう書こう」

「引用するならどこを引用しよう」

「このコンテンツに対しどう自分の意見を言おう」

そういったことを考えていた。少し切迫感もあっただろう。

 

それは、プレッシャーでもあったが、どちらかといえばよい面が大きかったと思う。

なんとか目の前のものからブログに書き得るものを引き出そうと考えると、

「吸収力」が向上する。

自然と必死になる。

だから、あの頃に読んだもの、観たものは、自分の糧になっている感覚が強い。

 

年を取り、この必死さは努力で維持すべきものなのではないかと思うようになった。

もちろん、あれ以来のアウトプットを前提としないインプットでも、自分なりに真剣ではあった。

だが、水が低いところへ流れるように、いつしか、問題意識をあまり持たず、

受動的にコンテンツを消費するようになっていったと思う。

そういうときは、読み終わった/見終わった瞬間、そのコンテンツを忘れてしまう。

そして、「自分の中にコンテンツを留まらせて考える」分量が

低くなってしまったと思う。

そうした自分への漠然した不安もあって、もう一度、アウトプットをブログで行い、

インプットを自然と熱量をもってできるようにしようと考えた。

 

自分の輪郭を揺らし、柔軟性を高めたい


このnoteでは、25歳で性格が固まってしまうという話があった。

https://note.mu/okaki_tabetai/n/n0a784b08b1b2

「だいたい25歳あたりから自分の歩き方がわかるから進む道を譲らなくなる。結果として柔軟性が無くなり、自分を形作る価値観の再編ができない」のではないか。そしてわたしの理論では性格というのは濃縮される。価値観の再編ができないままどんどん濃くなっていく。

 

実感としても、頷ける部分が多い。
これを自分自身の話として考えたとき、

ある程度当てはまるのではという思いとともに、恐ろしさを感じる。

 

ただ、25歳で固まったままになる人と、

それに抗う人や成長することができる人もいると思う。それもまぎれもない実感だ。

このnoteの執筆者も、その見えない固定化の力に抗おうとしているのだろう。


性格が固まることは、自分自身の輪郭が明確化してしまうことと言えるだろう。

その輪郭を、揺らしていくような何かが必要なのだと思う。


そのためには、例えば、先に述べたような前のめりなインプットがある。

どんどんインプットしていくことは、他者の価値観にどんどん触れること。

自分の価値観が揺さぶられ、他者の価値観の有用な部分を

自分の中に取り入れることができる(あるいは取り入れざるをえなくなる)だろう。


また、その「何か」として、「自分が何を考えているのか」を可視化するようなアウトプットもある。

つまり、こうやって文章を書くということ。

それによって、自分の考えがどれくらい独りよがりなものか、あるいは固定化してしまったものなのか、なども見えてくる。

そして、少なくとも文章のなかでは、その偏りを調整していくことができるだろう。

それは、(矛盾するようだが)矯正的な柔軟性の確保だ。

 

自分の輪郭を揺れを可視化し、それを大きくしていくこと。

それがブログを書こうと思っている理由のひとつだ。

 

とはいえ、気軽に書いていきたい

結局、気負いすぎることもよくない。

理想が高すぎたり、完璧を目指してしまったりすると、

それとのギャップですべてを投げ出したくなってしまいがちだ。

楽しむ感覚を持ち続けられるレベルで続けたいと思う。